昔、頑固な店主のいるラーメン屋を取り上げる番組が流行ってた時期がありました
そういう店の主はきまって偏屈そうなオヤジ
客に注文の仕方から食べ方まで自分の流儀を押し付ける。そして気に入らない客に対しては冷たく接したり怒鳴りつけたりもする
演出はあったと思うけど実際に私の街にも老舗の人気ラーメン屋ではそういう態度を隠しもしない店主がいた
その店では客がセルフサービスのニンニクと紅ショウガを入れすぎるとオヤジがガチ切れして「帰れ!」と喚く
どの程度で入れすぎとジャッジされるのかオヤジの気分次第という地獄みたいな店でした。でも評判の店だから客足は途切れない
客が店主の顔色を窺いながら食べるわけですよ
昔の私はそういうオヤジを見て『威張りくさりやがって」と憤慨しながらそこのラーメンを食べてた。味は今考えると割と普通だった気がする。雰囲気って怖いね
しかし自分が自営業を始めてお店を構えるとああいう店主たちの気持ちが少しわかります
自営業者にとって自分の店とは王国みたいなものなんですよね。自分は王様。長く店をやってると色んなトラブルに見舞われるけど基本は自分でどうにかしなきゃいけない
そういう経験を重ねると自分の王国感が強まる。おまけに自分の展開するサービスが認められて客が集まるようになると調子に乗りたくもなる
うへへ、民たちよもっと俺を崇めんかい
そんな栄光ある我がキングダムに唾吐く者が現れたのは半年程前のことでした
半年前
昼、仕事をしていると外から『ペッ』と音がする
誰かが唾を吐いたらしい
私の店は通りに面してガラス張りなので自転車で走り去るおっさんの横姿が見えました
普段から酔っ払いの多い通りなのでそういう行為は珍しくもない。だからその時は気にもとめてませんでした
それから数日後、また『ペッ』と聞こえる。ふとそちらを見るとまた自転車に乗ったおっさんの姿。シャツやズボン、スニーカーの色も同じなので間違えようがない、同じ人物です
二か月前
さすがに確信する。あのおっさん、いやクソ親父め、毎日店の前に唾吐いてやがる
最初のうちはたまに吐いてるだけだと思ってたらそれは自分が接客中で気づかなかっただけ
何の恨みがあるのか知らんけど毎日ですよ。顔を確認しても知らん奴だし
リサーチした結果、吐く時間に規則性があることがわかる
昼にまず『ぺッ』そしてしばらくしてもう一度『ペッ』
夜の七時頃に『ペッ』そしてしばらくしてもう一度『ペッ』
計四回、これを毎日。店の前を通って近所のスーパーに行ってることが多い。つまりどこかへ出かけてその行きと帰りに毎回律儀に唾を吐いてるというわけ
聞き込みの結果、被害に遭ってるのは私の店だけでなく少し先の飲み屋と美容院もらしい。しかし私みたいに毎日ではない
しかもですね文字の都合で『ペッ』と書いてるけど実際は
ペェエエエエエエッッ
って感じです。非常に自己主張の強いというか、切れはあれども粘つくような不快さも含んだ唾棄音。店の中にいるのにはっきり聞こえるとかどんだけ大きい音なのか
しかし不思議なことに吐いた唾がどこにも見当たらないのです
あれだけ派手に何回も吐いてるのに店の前の地面を調べても唾の跡がない。鑑識ばりに念を入れて探したけど本当に見当たらない
ちくしょう、店や敷地内に唾を吐いてるなら警察に対処してもらおうと思ったけど明確な証拠がない
上の記事は自宅の敷地内の話だけど厳密には唾吐き行為は敷地とか関係なくダメらしい。軽犯罪法違反になるからです
軽犯罪法第1条
街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはそれをさせたもの。
とはいえ警官が簡単に取り締まることは難しい
軽犯罪法第4条
この法律(軽犯罪法)の適用にあたっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない。
つまりあのオヤジが『喉を痛いから吐いただけ』と言えばそれ以上追及できない可能性が高い
うーん店の前に監視カメラでも設置する? 警戒して吐くをやめるかもしれない
そもそも目に見えて店を汚されたわけじゃないからこっちが気にしなければいいのかもしれない。実際酔っ払いがゲロゲロやっても気にならんし、我が町の汚れた風景の一部としてあのオヤジもいずれは馴染む可能性がある…かも
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一か月前
結局我慢できませんでした
唾吐き男が唾を吐いたのを確認して店を出て声をかける
「あのー、すみません。店の前に唾を吐くのやめてもらえませんかね」
できるだけ穏便に優しく。いい年した大人なのでトラブルは避けたい
「はあ?」
男は私の方を振り向いてすっとぼけ顔。自転車に乗ったまま、止まりもしない。その顔は「アンタ何言ってんの?道路に唾吐くと何がダメなの?わけがわからないよ」
そのまま私を無視して去って行く
そしてあくる日からまた普通に唾を吐き続ける
後から考えるとこの時私が中途半端な対応をとったことで男の行動に遠慮がなくなった気がします。つまり舐められた
そして二週間後
店の前を掃除してたら唾吐き男が自転車に乗って通りかかる
私、箒を持ったまま仁王立ちでメンチ。もし吐いたらラリアットしてやろう
じつは少し前にに巡回中の警官と話す機会がありました
事情を話すと逮捕は難しいけど通報してくれて構わないだって。私の話が本当なら明らかに異常な行動なのでその男と話してみるらしい。逮捕はできなくても警官が動いたということで唾吐き行為が止むかもしれない
それで私は通報のタイミングを見計らっていた時でした。困ってるとはいえ通報って気軽にはしにくいし
通り過ぎざま互いの視線が交錯する。白髪交じりのボサボサ髪で50代くらいの顔立ち、徳の低そうな顔
見つめ合いは男が先にふいっと視線を逸らす
ふん勝ったな。ていうかよそ見してたら危ないからだろうけど
結局男は私の店に唾を吐きませんでした、流石に私のいる前では吐かないらしい
これを期にやめてくれればいいけど。そんなことを考えながら去り行く男を見ていると
ペッ
あ、吐いた
少し先にある民家の前を通るタイミングで。コンクリートの塀があったけどそれを飛び越え庭を目がけるように男は少し上を向いて派手に吐く。そして続けざまにその家の門扉を目がけて吐く
その時に初めて男が唾を吐く様子をはっきり見ました
痰が絡んで仕方なく吐いてる感じじゃない。そこにあるのは汚してやろうという悪意。口中に水分は残ってないのに無理やり唾液をかき集めて吐き出してる様子でした。一生懸命吐くので音が派手に鳴るのです
彼にとっては唾を吐きかけてやったぜという事実が大事なのでしょう
いくら店の前を探しても唾液の跡が見つからない理由はそういうことです
しかも私がいる前で堂々とやってのけた。他にも通行人はいて「なんだこの人…」と異様な目で見てる
それでも人目なんて一切気にした様子はない。平然とした顔
ほほう、なるほど
このキ〇ガイにとってこの界隈全てが自分の領土とでも考えているのでしょう。そこでは何をやっても許されると
著しい社会性の欠如
これまでにこういう行為を誰にも注意されたことないのかもしれない。あったとしても私のように遠慮がちとか
たいていの人々は要らぬ軋轢やトラブルを避けるものです。特に大人は嫌な目にあっても我慢する。昨今は頭のイカれた奴が跋扈しているのでよりその傾向が強い。何をされるかわからんから
私だって接客業をしてるので評判は気にします。近所で揉め事を起こしたくはない。だから我慢してました
だがそういう態度がこのイカレポンチを裸の王様たらしめているのでしょう
これは領土戦争
我がキングダムを侵そうとする狂王の―
長々と語っても仕方ないのでぶっちゃけるとただただムカついたのですよ
嫌がらせで唾吐くとか舐めてんのか、と。ボチボチしめるか、と
おいオッサン待てや
というわけでDQN丸出しで怒鳴りつけ、追っかける。自分でも驚くくらい声が出た。こんなに声を張ったのはいつ以来だろう
夕方で喧噪はあったけどそれでも通る声に通行人が騒然としてるけどダッシュ
男はいまさらのように慌ててました。「えっ!?」って感じで。そこで驚くことに驚きだよ。普通誰でも怒るっつーの
逃げる背中を掴んで自転車から引きずり下ろして
「俺に殴られるか警察行くかどっちか選べ」
と、凄く嫌な二択を迫ってしまう。しかも説明一切なしで。これじゃどっちが狂人かわかりません。マジで怒ってたんだな当時の自分
本当は『そこの貴方、私の店に毎日唾を吐き続けましたね? 謝って店の前を掃除するか警察行くか選びたまえ』と言おうとしたのですよ。だけど自分が思う以上に腹が立ってたらしい
男は自分に起きていることがまだよく理解できてないようで焦る焦る
「え!? そのっ、わ、私…喉が悪くてですね。それで…」
「そんなの知らんがな。はよ選べや」
めちゃキョどってる。でも説明不足なのに互いの会話はちゃんと嚙み合ってる。男は自分のやったことが理解できない類の人間ではないらしい
しかしこうやって文章にすると大変ガラ悪い。そういえば少し前に牛丼屋で店員の胸倉掴んで逮捕された酔っ払いの事件があったけど。もしやコレもダメなやつでは…?
…創作話ということで先に進めます
おっさんがおっさんを威嚇するという酷い絵面は長く続きませんでした
「申し訳ありません! すんません。今後このようなことがないように気をつけますので…だから…その…すみませんでした」
意外だったのはこれだけふざけた行為を繰り返す輩なので態度も悪いのかと思いきや凄く腰が低い。直立不動だし動きもなんか新兵みたいにハキハキしてるし
「もう店に唾吐くなよ?」
「はい! もう二度としません。今後このようなことがないように…」
「それさっき言ったし、まあいいや」
というわけでそれ以降唾吐き行為はピタリと止まりました
でも前に相談した警官がそれ以来定期的にパトカーで巡回してくれてるんですよね
「不埒者は成敗したのでもう大丈夫」と伝えたいけど詳細聞かれたら気まずいのでどうしようかなと
それで先週ですけど久しぶりに男の姿を見かけました。店の前を自転車でさっそうと通り過ぎたのですけど滅茶苦茶爽やかな髪型になってた。前はぼさっとした長髪だったけど凄く短いスポーツ刈りで板前っぽい。以前に比べて姿勢が良く、チンタラペダルを漕がずにシャキシャキ走り去ってた
たいへん更生感が漂っててよろしい
映画『タクシードライバー』のデニーロみたいな変化じゃないといいけど
あの作品のデニーロさんは笑ってしまうくらい唐突にモヒカンになって偉い人の暗殺に目覚めるのですよ